社長ブログ

2018年12月

2018.12.11

凪ラーメン

昨日の「ガイアの夜明け」を見た方はいるだろうか。

そこで紹介されていたのが、経営者仲間で共に学んでいる「凪ラーメン」の生田社長であった。生田社長は「罪悪感のないラーメン」の開発を目指し、「ベースフード」様と一緒のコラボして「糖質50%, カロリー30%オフ」の新ラーメン「ベースラーメン」を開発した。

これは、我々にとって大変うれしい話である。まず第一に基本的にラーメンは美味しく食べたい。また、飲んだ後どうしても食べたくなる時がある。しかし、カロリーや糖質、塩分、脂肪が多く健康食とは言えず、どうしても「あー食べちゃった」と食後の罪悪感を抱くことがある。そこに挑戦し出来たのが「ベースラーメン」である。

かく言う私も、段々ラーメンを控えなくてはならない年齢なのだが、これであれば「不安」「罪悪感」なく食べられそうである。味やコシではなく、「罪悪感」に挑んだ生田社長、そして麺を提供しているベースフード様にあっぱれである。

2018.12.10

プロセス

今、プロセスに注目をしている。

プロセスとは「過程、工程」といった意味だが、どんなことでも、何か結果を欲したり、あるいは目標達成のようなゴールがあり、ゴールがあるということはスタートもあるということである。

そしてスタートからゴールまでの「過程、工程」がプロセスなのであるが、この工程が「ブラックボックス」になり勝ちである。それを無くすためにプロセスを明らかにする必要が出てくる。そしてプロセスが明らかになることで、どこがボトルネックになっているかが見えてきたり、属人的になっている業務が見えてきたりする。

今のデジタルの時代はこのプロセスが見えずらくなっている。ITの発展で、何か情報をインプットすると、コンピュータが計算をしてすぐにアウトプットが出てくる。そして結果には注目するがそのプロセスには注目をしないか、あるいは分からないままその結果を受け入れることが当たり前になっている。このようなことが習慣になっているため、「なぜ」を考える機会が減少しているように思える。

何事においても結果が大事であることは論を待たないが、同時にその結果が生まれたプロセスは注目に値するし、結果を変えるにはインプットを変えるか、プロセスを変えるしかないことは、認識をしておく必要があるだろう。

2018.12.09

テクスチャー

集水桝の蓋である。

何げなく町にあふれている集水桝の蓋ではあるが、横基調の格子のバランスがとても奇麗である。そして注目すべきは表面のテクスチャー。これは滑り止め効果を狙っているもの思われるが、その機能面もさることながら、鋳物ならではの造型である。

このようなテクスチャーは、一度溶かすという工程がない限り表現をすることは出来ない。シンプルな形状〈デザイン)に鋳物らしさの特徴のテクスチャー。

造型性と言う面から見た鋳物らしさが凝縮されている製品である。

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2018.12.08

忘年会

昨日は会社の忘年会であった。

とういうことで、昨日はブログを書き忘れてしまったのですが・・・。
モリチュウの忘年会は新潟の三条市で行う。なぜかと言うと、新潟にある板金工場のメンバーと一緒の時間を過ごすためである。なので埼玉から全社員が新潟に行き一泊で行うことになっている。このように普段顔を合わせないメンバーが年末に顔を合わせることでコミュニケーションが良くなる。実は私が社長になる前は顔を合わせる機会がなく、別の会社の人のようであった(と、ベテラン社員が言っていた)。そうそう、この会には中国で品質管理をしている社員(中国人)も参加する。

また、「忘年会」とは言うものの折角一泊で行くので内容は盛沢山。朝7時30分に大宮駅に集合し、協力会社見学、その後ホテルに移動し下半期の実行計画作成、ここで社長承認をもらったグループは忘年会に参加(こうなると皆飲みたいので時間までに必ず終わる)。その後二次会(希望者のみだが、ほぼ全員参加)。翌日早朝勉強会、ステンレス板金工場見学後、燕三条駅で解散となる。

実行計画作成の後の全社員参加の忘年会が社内募金総取りじゃんけんなどもあり、かなり盛り上がる。結構お金はかかるが(笑)、元気な社員の姿を見ると、嬉しくなると同時に、来年も頑張ろうと強く思うのである。

2018.12.06

頼まれごとは試されごと

社員教育の中で、普通の社員を出来る社員に変える言葉のひとつが「頼まれごとは試されごと」である。

この言葉は武蔵野の社員塾でよく使われている名文句である。社員は何かを頼まれると面倒だと思う。特に、忙しい時に何かを頼まれるとそう思う。それは当たり前の心理で正しい。しかし、その時どのような反応をするかで後が決まる。

「頼むと」いう字は「頼り」と同じ漢字である。その人を信頼して自分をサポートしてほしいと思って頼むのである。なので簡単に出来ないといったら、「頼り」を失うこと、つまり信頼を失うことになる。そして、その人の成長につながるような頼まれごとは二度と来ないだろう。チャンスは逃げていくのである、いや自ら逃がしているのである。安易に「出来ません」と言って、上司が「そうか、ではボクがやるからいいよ」ということになったら、運の尽き。自分を高め、成長させるチャンスを自ら捨てたということになる。こんな恐ろしいことは無いのであるが、残念ながら、「良かったぁ上司がやってくっれるって、ラッキー」と思う人もいる。

なので「頼まれごとは試されごと」ととらえ、果敢に挑戦する人と、そうでない人との差は毎日確実に広がっている。そしてそのことに気づいた人が勝つのである。

2018.12.05

嫌われる勇気

少し前に、「嫌われる勇気」という本が売れていた。今でも書店の店頭には平置きに置いてある本である。

心理学者であるアルフレッド・アドラーの書いた本で、私はまだ読んでないので中身は分からないが、タイトルだけ見ての感想は、大変大切なことであると感じている。

嫌われたくないというのは人間誰しも思う感情である。「本当は言わなくてはいけないのに、それを言うと嫌われる」と思うと逃げたくなる。そしてその方が楽だから、結果的に逃げる。その結果が、部下の成長を妨げることとなり、成果を上がられない社員はいじけるか、最悪退職をしていく。自分の逃げの姿勢、つまり自分の弱さがこの様な結果を作っていることに気が付いていないことも多い。

私は社員に、「良い社長になろうとは思っていません、成果を出す社長になります。その為に嫌われてもぜーんぜん構いませんよ」と堂々と言っている。それは、「社員の皆さんにとって大変なことであるかもしれないが、成果を上げる為には厳しいことも実行します」と宣言をしていることに等しい。

なので、「嫌われる勇気」が大事なのである。

※アドラーの「嫌われる勇気」の内容とは違っているかもしれませんので、悪しからず。

2018.12.04

普通にすごい人

昨日はダイバーシティについて書いた。

今日は別の視点から関連するとについて思うところを書きたいと思う。人は極端なことやレアケースを好む傾向がある。当然それは目立つことであり、「話題性」という観点で言えばこれ以上ない題材となる。

例えば「偏差値40から有名大学に合格した」とかいう話などがそれにあたる。勿論その題材になった人はとても努力をしたはずであるし、それは素晴らしいことである。しかしそれをことさら凄いこととして広めようという感覚には残念ながら馴染めない。そしてそれを極端に礼讃するような風潮にも違和感を感じる。また、時に本人がそれを吹聴するときもあるが、「・・・」である。

普通に一生懸命頑張って有名大学に入った人もいるし、大きな成果を上げた人もいるはずである。しかしヘタすると、「そういう人はやっぱり頭が良い人だから」、とか「もともと育ちが違うから」とかという話になり勝ちであり、話題にもならない。

私は、目立たないが実はとても努力をして、大きな成果をだし、でもそれを顔に出さず、多くを語らず・・・と言う人を沢山知っている。そしてその方がカッコいいと思うのである。

2018.12.04

ダイバーシティ

最近「ダイバーシティ」という言葉を聞くことが多い。

その意味は「多様性」ということである。アメリカでは様々な人種がいて、その多様性を認め合いながら共存共栄することで国が形成されている。そしてお互いが認め合いながら平和で豊かな社会を築いて言うことは大事である。

なので、多様性を認めるとはいうことは勿論大切なことである。しかし同時に、多様性だから「何でもあり」と言うのも間違いであると思う。これは先日書いた「自由」と「自分勝手」の違いと同じだ。

「自由」とは「ある部分は明確に文書化できるが、ある部分では社会の構成員がなんとなく意識しているルール(慣習法)があって、その範囲内で自由に行動、発言できるということである」と書いた。つまり「ゆるやかな枠組み」があり、その中では自分の意思で行動が出来るということである。

では、「ダイバーシティ」における、ゆるやかな枠組みとは何か。それは、「自然かどうか」で判断できると思う。例えば子孫繁栄をするために男女が惹きあうのは「自然」である。なので「不自然」なこと(あるいは宇宙法則に反すること)を個性や独自性であると声高に主張するのはおかしい気がする。自然界にもまれに不自然なことは存在するが、それは自然の中のごく一部でありマイナーである。もっと言えば「不自然が気が付かない程度に自然に存在しているのが自然である」と言える。

ダイバーシティについても、同じことが言えると思う。

2018.12.02

旗差し

先週と同じビルにあった「旗差し」である。

最近は祝日に国旗を掲げることも少なくなったが、昔は祝日を「旗日」と言い、文字通り祝日には旗を掲げた。その旗を支持する旗差しであるが、これも美しい鋳物で製作されていた。

旗差しも、最近ではパイプを溶接をしたものが殆どなのでとても味気ないが、やはり旗は常に何らかのシンボルであり、特に国旗を支持するものはこれくらいの重厚感があって欲しいと思う。

唐草の文様と縦スリットがバランス良く組み合わされ、壁面定着部(台座)の文様は西洋のものなのか、あるいは仏像の台座のデザインから来ているのか・・・いずれにしても落ち着きと品格のあるデザインとなっている。

材質はやはりブロンズ鋳物であろう。このように、一瞬見落とされ勝ちなところにしっかりとした鋳物が使われているのを見ると、とても嬉しくなるのである。

2018.12.01

自由と自分勝手

今日から再開します。

アメリカ合衆国にある自由の女神。Statue of Liberty に象徴される「自由」は人が幸せに暮らすためにはとても大事なことである。強大な権力者がいて、言論の自由、発言の自由、行動の自由などが、許されていなかったとしたら、それは非常に抑圧された生きずらい世の中になってしまう。

しかし同時に、自由と言うのは「何でもあり」ではない。「俺は自由なのだから、何でも俺の好きなようにやらせろ」と言うのはおかしなことになってしまう。もし、これを許すと「オレはあいつが気に食わないからぶん殴る、それは俺の自由だ」ということになってしまう。つまり「無秩序」な世界が形成される。カオスである。これを「自分勝手」という。

自由とは、ある部分は明確に文書化できるが、ある部分では社会の構成員がなんとなく意識しているルール(慣習法)があって、その範囲内で自由に行動、発言できるということである。

繰り返すが、何でもありは自分勝手となってしまう。なので「自由」と「自分勝手」をはきちがえないようにすることが肝要である。